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びいどろ時舟 37 

洋船は、接岸の進入角度を誤って、船底を岩に打ち付けたらしかった。
季節によってこんな横風が吹くのだと、若い異国の船員が、放心した千歳に気の毒そうに流暢に語る。
この辺りは潮の流れが独特で、この場所に落ちたものは海の底の国に行ったまま、遺体が浮かぶことはないと言う。

こうして、パタヴィア上陸を前にして、鏡の行方は分からなくなった。
役人が33人と書かれた乗船記録に、赤い線を引き下船32人と書き換えただけで、鏡の探索はなされなかった。
国許で無用になった混血児が、一人や二人泡沫に消えようと、彼らの胸は痛まない。ただ数字が変わっただけの話だった。
不思議と鏡と共に居た唐人通詞のことを口にするものも居ず、悲しみに打ちひしがれる、丸山一の美しい千歳花魁の嘆きだけがいつまでも人々の興味をそそった。
海岸に佇み、後を追って自らも散り行きそうな太夫を心配した船員が、優しく上着を掛けて商館に伴った。

「千歳さん。新しい暮らしをしましょう。生まれ変わったつもりで・・・。」

「あい・・・。小吉坊も一緒に行かんね・・・。ね、あしがお母しゃまになってあげるけんね。」

千歳は涙を拭き、鏡の残した小吉を抱いた。

*******

「・・・そして姉の千歳太夫は、露西亜人の船員と結ばれて、この後いつまでも幸せに暮らしましたとさ。」

弁髪の王が、銀色の世界に佇んでいた。
薄い顔の表皮膜をぺりと乱暴に剥ぐと、丸山で見慣れた顔になった。極めて事務的にデータを打ち込み、淡々とサンプルの消去を確認した。

「シン。君は、崩れないんだな。」

金色の髪のセマノが、青ざめたシンに問う。

「いつか、めぐり会うと信じている。」

「馬鹿なことを・・・。花魁の見せた夢物語だ。」

最期を切り取った映像とセマノの持つ指輪が、鏡の形見になった。
声は届かなかったが、確かに鏡は新と気付き、薄く笑ったような気がする。
「新さん」と、名を呼ぼうとしていただろうか。ゆらゆらと沈んでいった深い海の底で、鏡は何を見るだろう。
最後まで、赤子と柵を握りしめて離さなかった指は、痺れて感覚も無かったはずだ。
気の遠くなるほど昔の時代の、歴史の波間に生まれた、たかがサンプルの欠片だった。
伸ばした指さえ届かずに、死なせてしまった・・・。ふっと力が抜けて、シンはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫か?」と問われ、反射的に次の仕事の指示を仰いだ。セマノは言われたとおり、部屋の外へと無言で外した。

背中でひゅと、壁が閉じられる瞬間、シンの慟哭を聞いた・・・・。
胸を切り裂く悲鳴のような、管理官の嗚咽。

「意地っ張りだよなぁ。もう少し、意地悪してもいいかな。」

時の管理省から、召集が来ていた。




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