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明けない夜の向こう側 第二章 11 

あれは、上野で暮らしていた頃だった。
日々の生活と生きてゆく苦しさに負けて、櫂はたった一度、陸を捨てようとしたことがある。

「にいちゃ、おれを捨てないで……」

そう言った陸の握りしめた拳は震えていた。
口下手な陸の思いが何かわからないが、隠していることがあると、櫂は気づいた。

「すみません。車を戻してください」

「櫂さま。あいにく外泊届けは出されていません。寮の門限に間に合わなくなってしまいますよ」

「忘れものなんです。すみません。うっかり、提出物を机の上に置いて来てしまって」

車内の鏡で、運転手は櫂の顔色を窺った。
できるだけ短時間の滞在で櫂を別宅から遠ざけるよう言われている。
だが、視線が絡んだ瞬間に、櫂はとびきりの笑顔を向けた。

「走って行ってきます。すぐ戻りますから、エンジンを切らないで待っていてください!」

玄関に走り込んだ櫂は、階段を上がりかけた陸を背後から掴まえ、腕で巻き込むと顔を寄せた。

「……にいちゃ……どうしたの」

「どうかしているのは陸の方だ。何があった?誰か来る前に、手短に早く話せ。今なら、誰もいないから」

「あの……」

言いかけて、陸は階段上に使用人の気配を感じて、言葉を飲み込もうとしたが、櫂の強い視線に押されて思い切って口にした。

「あのね、郁人……の為におれは生きているんだって言われた。にいちゃも、郁人の為に医者になるんでしょう。おれたちは郁人の為に、ここに呼ばれたんだよ。だから、郁人の事はここに来るまで知らされなかったんだと思う」

「……そうか。わかった。後の事はおれが考えるから、陸はとりあえず今のまま何とかうまくやってろ。学校は?」

「行ってない……笹崎さんとも話が出来なくて……でも、手紙にも書けなくて、どうしていいか分からなかった……」

誰かが階下へと降りてくるのを感じて、櫂はわざと声を張った。

「返事が書けなくてごめんな。しばらくは、実習が入るから戻れそうにないんだ。でも、夏季休暇には戻れると思うから、心配しないで待ってろよ」

「うん。にいちゃ……」

「郁人にもよろしくな」

強張った陸の頬に、涙が一筋零れた。口にしなくても、櫂はきっと理解してくれたと思う。櫂の「待ってろ」は、そういう意味だ。
降りて来たのは、望月医師だった。

「……どうしたんですか?」

「何でもありません。夏まで帰ってこれないって聞いて……ちょっと、悲しくなっただけです」

「そうですか?陸さまが利口な子供で、安心しましたよ。兄上にわたしの事を告げ口するのではないかと……心配していたんですけど、どうやらそんな心配はいらなかったようだ。櫂くんは、先日の試験でも首位だったそうですね。……立派なお医者様になれそうだ」

陸はぼんやりと望月を見上げたまま、何も答えなかった。
望月を見つめてはいたが、その瞳に望月は写っていない。
傍に居ない櫂だけが、陸を支える唯一の存在だった。




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